人と人を結びつける宿があると聞いて沖縄の北部、今帰仁にあるこの宿に最初に訪れたのは
6年前だった。当時20歳だった私は恋に傷つき傷心旅行でこの地を訪れたのであった。
この『結家』という宿ではその日に初めて出会った人達が夕食をおのおのに作り、全員で一緒にいただきます・・・というスタイルなのである。
手帖にたまたまメモをしてあったこの宿『結家』に試しに電話をかけたのが、数々の出会いの始まりだった。
結家には日本全国から旅人が集まってくる。
今年最後の大晦日の日、私は沖縄へ向かった。
4年振りに訪れる結家は果たして変わっているだろうか?何も変わっていないのだろうか?
色々な思いを胸に辿り着いた宿には暖かい人達とちっちゃな赤ん坊を抱いた女将がいて
6年前に一緒になった友達と偶然の再会があったり、女将の髪の毛を切ったり、
朝方まで飲み会は続き目が覚めると2011年の朝になっていた。
沖縄にはおもしろい食べ物がいっぱいある。なんだかかわいそうにも思えるお魚
『ハリセンボン』
豚さんが笑っているように見える(?)
宿のみんなでお出掛けした元旦の日の夜もまた意識不明のまま次の日になり、
6年前からずっと行きたかった神の島と呼ばれる『久高島』へ1人、小型フェリーで向かった。
写真の場所は二ライ浜といって五穀が入った壷が流れてきて、それから久高島、沖縄本島へと穀物が広まったとされる伝説の場所。神々が乗った船が停泊すると言われる浜である。
久高島に生えている植物や石、自然に生えているものは決して持って帰ってはいけないといわれている。
その物がそこにあるべくして存在しているものを動かしてはいけないのだ。
無人島かと思う程になんにもない島で草も生い茂っているし手つかずの林のような所もあるし
人口290人が住んでいるとは到底思えない場所であったが、
それはつまり自然のものは
自然のままそこに生かしてある証拠なのだ。
(神様の領域に足を踏み入れさせていただく・・・)
という気持ちでこの土地を訪れないといけなくて、
この島を訪れたいと思っても神様が
来るべき人ではないと判断するとフェリーが欠航になったり、
急に雨が降ったりしてなかなか行けない人もいるようなのだ。
私が久高島に降り立った時はご来光かな?と思う位に太陽の光が差し込んだが、
聞いた話だとその後の那覇では少し雨が降り久高島への宿泊者のキャンセルが続出したらしい。
私が泊まった宿の大正15年生まれのおばあは沢山不思議な話をしてくれた。
戦争に行く人へ向けて歌う歌を三線で弾いてくれたり自分が眠るお布団には枕を2つ置くと愛する人に逃げられない・・・
床の間には男の子の神様がいるから朝6時には電気をつけて明るくする・・・
虎年の人は縁起がよいとされ、戦争へ向かう男の人の腹巻きを縫っていた・・・
などなど興味深い話を3、4時間してくれてとっても勉強になる楽しい時を過ごせた。
フェリー乗り場のおじいさんがハーモニカを吹いてくれて久高弁の為半分は
何を言っているか分からなかったけれど、仲良くなり気を良くして那覇まで車で送ってくれた。
旅をしていると沢山の人に出会うけれどみんな暖かい人ばかりで本当に嬉しくなる。
沖縄の人は去り際に『頑張って!』と言ってくれる人が多かった。
そして年始年末で泊まった結家には昔からの自然な言い方があって、宿を出る旅人には
『いってらっしゃーい!』という。
またここに、沖縄のもう1つのこの家に必ず戻ってくるからこそさようならとかじゃあね
と言う言葉は使わないのだ。
『また帰っておいで』と言ってくれる宿の女将や久高島のはなおばあや、
今回出会えた人達に本当に感謝したい。
またこの家に帰れる日まで私は長期出張の東京という大都会で頑張ろうと思う☆ ☆ ☆
2010.12.31-2011.1.4 〜沖縄の旅〜END 浜本蘭